今日は書くことについて書こうと思って、1000文字くらい書いていたのだけど、どうにもまとまらなくて放ってしまった。
結局僕は「作者―文章」の関係性について書きたかったのに、入り組んだ町のようにあらぬ方向へと行ってしまったのだ。
作者―文章―読者
こんなふうに文章について表せると思う。
文章の書き方、なるものが取り立たされるとき「文章―読者」の関係性について語られることが多い。
良い文章は、読者が最優先にされることに気づいているだろうか。
読まれるためにわかりやすく書く。
読まれるために技術を使う。
人へ伝えるために文章を書くのだから当たり前だと思うかもしれない。
でも僕は「作者―文章」が死んでいるのなら、いくら「文章―読者」を強いパイプで結んだところで良い文章とはほど遠いと思う。
例えば、情報教材の販売サイトを思い出してほしい。
長い販売促進の文章があって、スクロールしていくと「10万円がいまだけ1万9800円。限定10個」と書いてある例のあれである。
ある程度、インターネットに慣れた人ならまず引っかからない。が、よく知らないで最初に訪れた場合、わりと高い確率で欲しくなるんじゃないだろうか。
ありとあらゆる心理学を用いて、読者に買わせるように仕向けているからだ。
読者に読ませる、読者に興味を持たせるという意味では、おそらく最強の文章である。(もはや効果は薄いとはいえ)
しかし誰も情報教材のあの文章を、名文だと思わないだろう。
そこには飾りだけの言葉しかないからだ。
書くことによって作者はまったく心が動いていない。
作者と文章との関係性がきちんとしていて、はじめて文章は意味を成す。
もうちょっとわかりやすく書き足すとこうなる。
世界(関心)―作者―文章
何気ない夕陽でも作者が本当に感動したのなら、「夕陽がきれいだった」という簡易な文章でも意味があると僕は思う。それが読者の誰の心も打たなくても(実際、関心の度合いが深ければ文章も良くなるからそんなことはないが)、はっきりとその文章には意味がある。
そもそも文章が上手くなりたいという思いは、自分が心を動かされるものがあって、でもその対象を上手く表せないときに生じるのではないだろうか。
本当に感動したのに、「夕陽がきれいだった」としか書けないもどかしさから、もっと上手く書きたいと思う。
そう。そうなんだ。
書くっていうのは伝えるというより、誰かと感情を共有したいという気持ちから始まるんじゃないだろうか。
水を取ってきて
水がおいしい
この二つの文章は似ているようでぜんぜん違うんだ。前者は伝えるためだけの文章だけど、後者はそのおいしさを共有するために書かれているんだ。
こうして書いてみて、いまようやく書くことって何なのかわかってきたような気がする。