- 作者: キャスリンアシェンバーグ,鎌田彷月
- 出版社/メーカー: 原書房
- 発売日: 2008/09/22
- メディア: 単行本
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もし誰かから「一週間も風呂に入っていない」と聞いたら、その人のことを不潔だと思うだろう。
しかし長い歴史のなかには、風呂を好む時代もあれば忌み嫌う時代もあったのだ。
古代ギリシャ、古代ローマ時代においては、風呂があるのは当たり前だった。ギリシャの場合は汗を流す必要なものとして風呂に浸かったが、ローマでは楽しむために共同浴場があった。
『テルマエ・ロマエ』という漫画が流行ったことから、ローマ時代の風呂に対するこだわりを知っている人は多いかもしれない。
ジムがあり、プールがあり、マッサージ室がある。ほとんどいまの温泉施設と変わらない。
ローマ人は清潔であることを美徳に思っていたのだ。
その一方キリスト信者は洗礼以外で体を洗うことを嫌った。
四世紀と五世紀の東方では、汚さはキリスト教徒の聖らかさを示す顕著なしるしになった。汚れたままでいるという独特の肉体の苦行は、〈アロウシア〉つまり「洗っていない状態」という語で知られ、隠者や修道僧、聖人たちのあいだで広く行われた。(p58)
キリスト信者が体の清潔を嫌ったことには、これがすべてではないが「誘惑」という理由があったらしい。体の快楽を避けた。
ローマが衰退し滅びることによって、ヨーロッパの共同浴場の施設も消え去った。復活したのは中世になってからである。十字軍の東方遠征によってトルコの風呂「ハマーム」が知らされた。
神聖ローマ帝国では「風呂手当」というものもあったらしい。人々の交流の場でもあった。
そんな風呂文化が再びなくなるのは十四世紀にペストが流行してからである。パリ大学医学部の教授たちは、湯浴みによって全身の毛穴が開きそこからペストが侵入してしまう、と指摘した。
実際は、不潔になればなるほどノミにたかられやすくなって、ネズミがペストを運んでしまうのだが、その指摘によって共同浴場は閉鎖された。同時に、風呂に対する恐怖も広まってしまったのだ。
この時代になると、下着を履き替えるだけで体が清潔になると信じられていたのだから驚きだ。ある文士は下着を一二枚持っていた。
しばらくしてジョン・ロックや、フロイヤーという医師が「冷水浴」を勧める。
一八三〇年になると、皮膚呼吸という新しい考えが出てきて、体をきれいにすることが生命維持に必要だというふうに認識が変わる。
一八四二年には共同浴場ができるが、人々のなかには風呂に入ると伝染病にかかると信じている人も多かった。
いまのように清潔であることが多くの人に美徳とされたのは、石鹸やリステリンを売るための広告が出てきてからである。口臭や、体臭が、人を不快にしていることを訴えた。自分ではわからないこともあって衛生ブームは広まった。
そしていま現在、清潔については古代ローマと変わらないようになっている。このように清潔に関しては、時代によって移ろいを見せている。
著者は最後にこう結んでいる。
清潔の未来は謎めいていて、いつもそうだったように、資源と同じくらい心情によって変わる。たとえば、深刻な水不足以上に私たちの入浴習慣をたちまちすっかり変えてしまうものはないだろう。
ひとつだけ確かなことがある。一世紀後の人々が、驚かないまでも面白がって、二一世紀初頭にふつうに清潔だと思われていたことを振り返るだろう、ということだ。(p282)
もしかしたら風呂に入ることが不潔になる時代が再びやってくるかもしれない。この本には日本のことについてはほとんど触れていなかったから、日本での清潔事情も気になる。