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徒野まで一直線

フィクションの感想。個人的なメモ。過去記事アップメイン

本屋にいって/保存する

 本屋に入って「五年前の忘れ物」という本を買った。エッセイだと思ったら小説だった。
 作者は益田ミリ。基本的には漫画とエッセイの人で、僕の好きな作家さんだ。
 小説書いていたんだ、と思った。
 世間的には、タレントや専門外の人が小説を書くと厳しいけど、僕はむしろそういう特殊な仕事をしている人たちの小説が読みたかった。
 ベンチに座って真新しい本を開く。おろしたてのシャツと真新しい本はどことなく似ている気がする。
 
 このところの僕は小説を読めなかったんだけど、益田ミリの小説は読めた。すごく自然に書かれていたからだ。不用意な力というのだろうか。文学くささがなかった。不思議なくらい重みがない。ページをめくる手も軽かった。
 一つの話がすぐに終わる。すぐに終わるのも後腐れなくてよかった。
 益田ミリの小説だからか、益田ミリのあの絵で想像していることに気づく。実写と絵が半々くらい。
 この人には珍しくどきつい性の話もあって、そこはちょっと恥ずかしかった。

もっと自己校庭(肯定)

第一話

 思うようにかけなくなりました文章ちゃん。このところ文庫も単行本もKindleも読んでないですもんね。なんで本って長方形ばかりなんでしょう。○とか△とかあってもよくないですか。ブログブログブログ。
 ブログのおもしろいってなんでしょう。同じようなの続くと飽きちゃうんですよ。今日の自分が明日も同じ自分なんて、絶望感しかない。
 働いてて一番嫌なのがこのまま来年もここにいるということで、やめるなんて簡単なのにやめたらどうすればいいかわからないし、どのみち生きるためには働かないといけないという諦観、だから僕はそういうの捨てて明日どうなるかわからない選択をしていきたかったので、定期的に自分を追い込んだり絶対にしないことをする、というようなことをしています。めっちゃ長い文章書いたから絶対ねじれてるよ。文章の意味狂ってるよ。僕は狂ってないですよ。いつも元気いっぱい元気ちゃんですよ。
 好きなこと=得意なことは一致しないのが常々で、オーソドックスな白黒写真のように被写体が真正面向いてくれることなんてなく、バラバラ死体のように部屋を汚しているもんですね。血の匂いは鼻の奥に残り、筆についた干からびた墨のように持続していく。壁ちゃんと床ちゃんとドアくん。

第三話

 文章からの強烈な拒絶感をひしひしと感じる。言葉の意味意味が散り散りとなってCGのように現実感が伴わない夢見物語。ゆえにそぞろがましで遠回りしながらアプローチ方法を格闘しつつ錯綜しているわけだけど、文章と私の一体感が死んだみたいに感じられずにただの羅列文章。いっそのこと身体改造でもした方がいいんじゃないかとあえぐうすのろ。
 子供だましだと心殺し、言の葉が病んで虫食い状態になった腐った木で次々と首吊りしていく屑共と虚ろなまなざしで見ている自分。

第七話

 第七話とかに意味なんてありませーん\(^o^)/
 適当につけてみただけです。えへ(*´∀`)
 だからこれが最終回ってやつです。ブログはまだまだ続きますよ。これからも応援してけろ。目次機能を試してみたのだった!

ゆめばな

想像力=アイデア力みたいなふうにしか語られないから想像や妄想したときに出る映像のことを想像映像力と仮名して話を進めていきます。
ぼくは眠って夢を見たわけです。
そこで瞬間移動みたいなことをしました。
ぼくはAの部屋にいて眠っていました。そして隣のBの部屋にいる想像映像をしはじめました。
これはまあ現実でもよくやります。家にいながら、外へでて散歩をする想像をします。ただ、これはとても瞬間移動とはいえないですよね。

ぼくは自分がBの部屋にいるという想像映像をはじめました。そして次の瞬間に想像映像の方に意識が移ったのです。はっきりとぼくは自分がBの部屋にいるという認識がありました。そして自分の本体がAにいることも、これが想像でしかないこともわかっていました。不思議な感覚でした。Bの部屋にあるものが克明に映っています。
実験なんてしていないのに実験に成功した科学者みたいでした。

夢のなかでぼくはこのテクニックを使って結構遊んだ記憶があります。ただこの最初のインパクトが強すぎて覚えていません。夢だから変なことがあっても当たり前だと思うかもしれません。でも空を飛ぶことも、魔法を使うことも、誰もが想像したことあるものですよね。だけどぼくはこんなふうな瞬間移動?を想像したことがなくて、だからなおさらびっくりしました。

想像映像力を鍛えていけばもしかしたらそれに近いところまで行けるのかなと思いました。想像映像力にも色々あって、ぼくのこのパターンのやつは、自分(想像)→周囲(想像)なんですけど、どちらも現実にあるものという感じです。仮想シュミレーションみたいな感じですかね。現実に沿わない想像はしません。

基本的には見ているもの(現実)の一部に想像を加えるのが鍛えるコツなんじゃないでしょうか。いまモニターがあるんですけど、モニターの上には猫がよりかかってます。モニターは現実で、猫が想像映像です。
現実と想像をミックスさせるのがいいのかなあと思います。

そこにスピードを加えるとかなり爽快になります。スピードってなんやねんと思われるかもしれないですけど、それは気が向いたら。

今日から私は煙草が二つに折れた道路沿いのポストにて漢字ドリルの採集を行うために擬似的な蘇生を繰り返す。

 タイトルは適当に書いたよ。特に意味はないよ。なんでもかんでも文章になってしまうから言葉って難しいよね。
 今日は「ミスト」っていう映画を観たんだよ。あんまりおもしろいとは思わなかったんだけど、まあ退屈はしなかった。
 お家で見るとポップコーン食べようとは思わないのに、映画館に行くとポップコーン食べたくなるのはなんでだろうね。
「すーちゃん」の新刊はいつ出るんだろうと定期的に思うんだけど、もう出ないのかな。2014年くらいにさ2年周期だからもうそろそろかなと思ったんだけど、からっきしだね。
 今日は本当は「自分との距離感」っていうタイトルで、どういうふうに自分と接するのかという真面目でお固い記事だった。かたいってこれで合ってる?
 でもなんかやめた。なんとなくだけど。
「自分との距離感」の文章を書いているとき思い出したのは「すーちゃん」のことだった。
 自分とどう接するかってむずいよね。大切にしすぎても相手をおざなりにしてしまうし、かといって相手のことだけを考えるっていうのも不可能に近いし。
 僕は自分のことを大切にしすぎて対人関係駄目にしちゃったな。
 劣等感のせいで相手をちゃんと見れなかった。「相手に迷惑」という口実をつけて自分が傷つかないように行動していたよね。
 ずっと、自分のことじゃなくて他人のことをちゃんと考えられるようになりたいと思っていて、でもやっぱり無理だった。
 昔は嫌な仕事をやらされると心の中で怒ったもんだけど、いまはこれやることで誰かの負担が減るんだと思いながらやっている。自分を大切に思わない作業として。
 自分を大切に思わないようになればすごい楽なんだけど、それはそれでどうなんだろうと思うけどね。

読む気力・書く気力

読む気力と書く気力、この両方がすっかり消え失せ、お酒を飲みながらだらだらとネットをしているというヤバイ状況になってきた。「もう私は一人でOKだよ。平気だよ」みたいなことを書いた記憶があるけど、友達づくりを諦めなかった結果わりと仲のいい人が出来て、そういうことも私から書く気力を奪った。
とはいえいつ嫌われるかわからず、また一人に舞い戻るかもしれない。そのときはヒュルリラ舞ってやろうと思っている。

9月になってからまだ一冊も小説を読んでいない。もう10日ほど文章の塊に触れていない。

執筆の方は、原稿用紙1枚ほど書き進めたくらいで、どう考えても文学界に間に合いそうにない。

これでいいのかな。ブログもわりとどうでもよくなってきた。

楽しむだけの文章を最近書いていないんじゃないかな。でもそういうテンションにもなれない。

ブログでも小説でも他人でも僕はわりと依存傾向にあって、考えてみるといまはその人のことしか頭にない。これが飽きるまで続くわけだけど、飽きたときのどうでもよさが半端ない。

小説だけが唯一飽きていないもので、だからこそ切れない。開花の可能性の低さは痛いほどわかっているんだけど、生きている理由みたいなものでもあるからな。

生活が不安定で、めっちゃ細長い平均台を渡るような生活をしていて、引き返せる位置にはいるわけだけど、難しい。

30で死んでもいいから好きなことしたいって思っていたけど、小説なしの生活でも楽しいんだよなあ。だとするなら生きながらえる道を選ぶべきか。

まあこれ書いているいまこの瞬間にトラックが突っ込んできて死ぬ可能性もあるわけだけどな。