マイケル・コーバリス,鍛原多恵子訳『意識と無意識のあいだ』感想

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)


 この本には、「ぼんやり」したとき脳で起きていること、という副題がついている。「ぼんやり」を経験したことがない人なんていないだろう。人間であれば、集中していたはずのに、違うことを考えているなんてしょっちゅうだ。
 しかし、誰も「ぼんやり」というものがどういうものなのかよくわかっていない。「ぼんやり」というのは「マインドワンダリング」と呼ばれるらしい。
 著書は「メンタルタイムトラベル」という言い方もしている。心が過去や未来へさまよう、と書くと、なんとなく「ぼんやり」の本質を掴めたような気がしないだろうか。

 では、なぜいま「ぼんやり」について考えないといけないのか。その理由としては、「ぼんやり」というものが不遇されているということが挙げられる。
 はっきりいって、不人気なのだ。

 ぼんやりというものを嫌う人は多い。一秒を一円にでもしたい効率重視の現代人において、何もしていない時間はさぞ無駄だからだ。
 授業中にぼんやり窓の外を眺めていたら怒られる。
 とにかく現代では、集中して頭を使うことが美徳とされる。無駄と雑念よ消え去れ、という精神だ。瞑想の流行でもわかるだろう。
 では、ぼんやりしている間はさぞかし脳が休んでいるのだろうと思ったら、どうやら違うようである。
 

 何もしていない脳へ流れる血液の量は作業中の脳の場合よりわずか五~一〇パーセント少ないだけで、作業中より作業中でないときのほうが脳内ではより広い領域が活性化されていることがわかった。(18p)


 ちなみにこの状態を「デフォルトモードネットワーク」と呼ぶ。
「ぼんやり」といういかにもパッパラパーの名前がどんどんかっこ良くなっていくことに気づいたかもしれない。
 間の抜けた「ぼんやり」も、「いやあ、ちょっとデフォルトモードネットワークに入っていたわ」と言うと許される感じがするので、試してみてほしい。人間関係にヒビが入ることを約束する。
 それはさておき、引用を見ると、意外なことにそこまで脳は休んでいないのだ。

 効率重視の資本主義連中どもはこれを知って怒り狂うかもしれない。あなたの部下はただ「ぼー」としているように見えて、実は脳の領域をほとんど使い「ぼー」としているのである。

 では、ぼんやりは無意味なのだろうか。
 いいえ、違います。

 なんと、ぼんやりは、創造性に、結びついていたのだ! 

 認識論学者のドナルド・T・キャンベル(一九一六~九六年)が、創造性の本質は「ランダムな変化と適切な選択」にあるとかつて述べている。ランダムな選択は、心身の別を問わず、「さまよう」という概念そのものにとらえられている。(182p)


「さまよう」というのはすなわち「ぼんやり」することだ。

 トイレやお風呂場、ベッドでアイデアが浮かんだ人も多いと思う。
 ぼんやりすることでアイデアを得ることができるのである。知っていたよ、という声が聞こえそうだけど、そうなのだ。知っていたとしてもそうなのだからしょうがない。

 こんなふわっとした結論になってしまうのは、この本がかなり「ぼんやり」しているからなのだ。

 章ごとに内容がほとんど独立しており、お笑いコンサートを見に来たのになぜかミュージカルになったり歌舞伎になるという不思議な現象を起こす。

 関連性はあるのだが、関連性の提示がうまくいっていない。脳科学の寄せ集めという印象を受けてしまう。

 犬が自ら家畜化したとか、ジョブスがマリファナをやっていたとか、そういう著者の知識(うんちく)あふれる語り口を楽しむ本なのかもしれない。

多和田葉子「犬婿入り」感想 1992年

犬婿入り (講談社文庫)

犬婿入り (講談社文庫)


「犬婿入り」を読んで、読者がつまずくとしたら最初の二ページだと思う。一文が長く、視線が安定しておらず、情報量が多い。
 試しに最初の一文を引用してみる。

 昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公団住宅の風のない七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに立ち止まり、斜め後ろを振り返った姿勢のまま動かなくなり、それに続いて団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの隣に止まり、中から人が降りてくるわけでもなく、死にかけた蝉の声か、給食センターの機械の音か、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。(多和田葉子『犬婿入り』p79 講談社文庫1998年)

 これで二一九文字だ。よほど読み慣れていないと、一読で内容を頭に入れるのは難しいだろう。視線の移動もすさまじい。視線の移動(カメラワーク)については、引用後も含めて軽くまとめてみる。

 洗濯物→年寄り→煉瓦色の車→郵便ポスト→六畳間→女→カサブタ→テレビの画面→違う部屋→冷蔵庫→食べかけのりんご→新興住宅地の団地の一角→キタムラ塾の張り紙。

 抜けもあるけれど、だいたいこんな感じで小説の視線がめまぐるしく移動していく。脳内で映像化するとカメラが絶え間なく動いていることがわかる。しかも、ほとんど句点のない一文が長い文章で書かれているので、丁寧に読まないとついてこれない。
 実際、「犬婿入り」を読んだことがある人で、冒頭の二ページに書かれている内容を覚えている人はどれくらいいるだろう。おそらく、少ないのではないかと思われる。
 冒頭二ページ以後は、とくに読みにくい文章はない。多和田葉子はどうしてこんな書き方で小説を始めたのだろうか。
 小説におけるかましの意味合いもあるだろうし、新興団地の(視覚的な)騒がしさの表現もあるだろうけれど、この読みにくい冒頭が「犬婿入り」という小説の本質に関わってくるような気がする。


「犬婿入り」がどういう小説なのか単純に説明すれば、飯沼太郎という男が犬のようにになって、キタムラ塾の北村みつこのもとへ住み始めるという話になる。
 犬のようにになるといっても、実際に外見が犬になるわけではない。中身が多少犬っぽくなるというだけで、飯沼太郎は人間でもあるし、犬っぽくある。とても曖昧な存在なのだ。
 そして、この「曖昧」というのが小説を読みとくキーワードになるように思う。

「犬婿入り」は曖昧なものと、具体的なもので成り立っている。具体的なものというのは、体とか物体である。しかしそこに付随している情報が安定していない。
 コップがあって中に液体が入っているのを想像してみてほしい。最初は水だったものが、ジュースになったり、コーヒーになったり、絶えず変化している。あるいは、最初から最後まで水だが、オレンジジュースやコーヒーに見えたりする、と言い換えてもいいかもしれない。

 たとえば、引用した冒頭もそうだ。「遠くから低いうなり」はあるけれど、それが「死にかけた蝉の声」なのか、「給食センターの機械の音」なのかはわからない。
 この小説の基本的な舞台になる「キタムラ塾」の北村みつこも、子供を通わせている母親からありとあらゆる噂を立てられる。「テロリストの指名手配犯」にされたり、「平凡な塾講師」にされたり、「ヒッピーの店」で働いていたとされたり、まったくもって素性がわからない。小説のなかでも北村みつこの行動描写や、思考描写はあっても、キタムラ塾の前に何をしていたかというのは明かされない。

 この小説のなかでは、何かに付随する情報が現れたかと思えば、すぐに新しい情報が出てきて、どんどん変化していく。
 これは文章のおもしろいところでもあると思うのだけれど、「これは水だ」という文章を「これはジュースではない。お茶でもなく、コーヒーでもない。これは犬だ」というふうにも書くことができる。意味は両方とも同じである。しかし、一度書かれた情報は、それが否定されたとしても、頭に残ってしまう。
 そして「犬婿入り」が厄介なのは「ジュースかもしれないし水かもしれない」というふうに正解が与えられないことがあるということだ。その情報に安住していない。

 その反面、物質的なものになると途端に具体的になる。小説のなかから拾いあげてみる。
「ウスバカゲロウの死骸」「もやしを炒め始めた」「冷蔵庫の上に口紅のついた食べかけの林檎」「〈日本橋から八里〉と刻まれた道標」

 飯沼太郎は、飯沼太郎であるし、北村みつこは、北村みつこである。色々な情報が与えられようと、はっきりと存在している。
 いきなり犬のように尻尾を生やし始めたり、飯沼太郎などという人間は実は存在しないのだ、というふうにはならない。
「犬婿入り」が普通の変身譚と異なるのは、物体ではなく中身が変化するということだ。

 それではどうして物質は具体的で変化しないのか。これはもう多和田葉子の特性といってもいいかもしれないけど、それは置いておいて、器を強固にすることによって中身の曖昧さをより際立たせているのだと思う。
 人が犬の姿になったとする。そのこと自体は異様だけど、犬になった姿で吠えたり臭いをよく嗅いだりするようになっても、おかしくはない。人間が人間のままで吠えたり匂いをよく嗅いだりするようになったら、そっちの方がおかしい。
 人間→犬になるおかしさは一瞬だけど、人間が人間のまま犬のようになるおかしさは永遠と続く。
 だから飯沼太郎は人間でなくてはらない。わざわざ昔サラリーマンであったことやそのエピソードを第三者に語らせるのも、飯沼太郎が人間ということを強調させるためだ。

 冒頭に戻ってくる。
 どうしてこんな複雑で読みにくい文章なのだろうか、という話だった。
 冒頭二ページには、具体的なものと曖昧なものが同時に存在している。
 具体的なものというのは「洗濯物」や「煉瓦色の車」や「郵便ポスト」といったものだ。存在を疑う余地もなく、存在している。
 しかし「子供たちが学校から帰ってきて塾へ移動するその時間まで」というのは、具体的に書かれているけれど、地の文で書かれている小説内での〈いま〉においては、存在していない時間だ。
「道の真ん中に車にひかれた鳩がつぶれていても、酔っぱらいのウンチが落ちていても」というのもそうで、えらく具体的に書かれているけれど、存在していない仮定の話だ。
 映画であったら絶対に映らない情報である。
 一文のなかに具体的なものと曖昧なものを並行して書くことによって、あたかも存在しないものが一緒に存在しているように見せかけたのではないだろうか。
 文章が長いのも、情報量が多いのも、そのためだ。
「犬婿入り」という小説は、具体的なもので埋めていくことによって、曖昧なものにリアリティを与えているんじゃないかと思う。