太宰治「人間失格」感想 1948年

 中学生くらいのときに一度読んだことがある。だから再読なのかな。改めてみると「人間失格」っていうタイトルはくそいいな。
 この主人公、大庭葉蔵に共感できるかできないかで言ったら、僕はできない方になるんだけど、第一の手記の冒頭はすごくわかる。
 汽車のブリッジをはいからにするための遊戯だと思っていたら、実用的なものだったとしって興が冷めるくだり。
 実用的なものをつまらなくて悲しいという捉え方。
 実用(悲)vs娯楽(喜)が、大庭葉蔵の根本的な考え方になるんだと思う。
 だから「銅銭3枚」で死のうと思うし、電線にひっかかった「凧」を見てうなされるんじゃないかな。
 凧なんて娯楽の象徴だから。大庭葉蔵はそれに自分を重ねてみているようにも思える。
 そう考えると大庭葉蔵は、むしろ明るいんじゃないかという気さえする。
 人を喜ばせたりするのが好きな人間なんじゃないか。
人間失格」は、自分じゃない人間を演じている悲しみ、みたいに捉えられているような気がするけどむしろ逆だと思う。

先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げてゆく先生のあとを、そっとつけてゆきましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、ほかのクラスの者たちの綴り方の中から選びだし、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。p24、太宰治人間失格集英社文庫

 もちろんこの満足には、お茶目な人間だと他人に思わせることに成功した、というのもあるんだろうけど、普通にウケたことに喜んでいるように思える。小説だからこういう言い方をするのも変なんだけど、そうじゃなかったらここまで鮮明に覚えていないだろう。
 あの有名な「ワザ、ワザ」は、強引な言い方をすれば、芸人が自分のトークを作り話だとばれたときの気恥ずかしさに近いんじゃないかな。

 大人になった大庭葉蔵はなんやかんやあって漫画家になって、シヅ子とその子のシゲ子と暮らすようになる。
 だけど酒浸りで帰ってきた葉蔵は、ドアの隙間から見える2人の幸福な生活を見て、自分がぶち壊さないように2人のもとから去るんだよ。

 それで大庭葉蔵がどうしようもなくなるのが、そのあとに出会ったヨシ子が他の男と寝てしまうこと。しかも相手が商人。
葉蔵にとってヨシ子は純粋性の化身みたいな人間だった。処女であって他人を疑わない。だから結婚したんだよね。

 葉蔵の苦しみは、浮気したことより、世の中というものに純粋なものが汚されたという絶望の方。
ゆえに葉蔵はヨシ子をまったくせめないし、ヨシ子が飲もうとしていたジアールを自分が飲む。

 大庭葉蔵は、幸福とか純粋なものを、世の中から守ろうとしているように見える。

 そこら辺、ちゃんと見ていくと、最後のマダムの「神様みたいないい子」という言葉も、なんとなくわかるんじゃないかな。

 個人的には太宰治は「女性徒」が好きですね。中学生のときはもっとおもしろかった記憶あるんですけど、いま読むと「人間失格」はふつうでした。

人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)