上田三四二『花衣』感想 1982年

花衣 (講談社文芸文庫)

花衣 (講談社文芸文庫)

(私が読んだのは単行本です。引用も単行本のページになります)


 ネットで見ると、この本は連作短編集というような呼び方がされているけれど、同じ登場人物が出てくるというわけではなくて、根幹するテーマのようなものが連作しているというものだ。
 表題作含む八作すべてが、男と女、生と死、にまつわるものである。と書くと、よくある小説のようにも思えるけど、風景描写に対する執念がずば抜けている。
「茜」では太陽、「日溜」では花、「岬」では海、のように小説には必ず自然が出てくる。
 男と女、生と死について書くのに欠かせないもののように出てくるのだ。
 写実的でありながらも、それ以上の詩情を感じさせる。

 たとえば表題作の「花衣」から桜について書かれた描写を抜き出してみる。

 桜は彼の頭上に気遠くなるほどの花の数をちりばめて、傾きはじめた陽が斜めに差すので、花が花に映え、花の枝が花の枝に影を落して、その光沢があるところでは練絹のように輝き、あるところではうす桃に翳りを増して、眼をこらすと、渋い紅いろの蕊と萼が群がる花々の一つ一つを鋲に留めて、花は花ごとに際立ちながら、それらの総体が、言い古された言葉ながら花の雲をなして、重力をうしなった軽さに中空に浮んでいた。(「花衣」p98)

 小説のなかでここまで桜を描写してみせるのはきっとありふれたものではない。引用後も描写は続く。桜の蕊(しべ)について書かれているのもおもしろい。
「花衣」は、河原という男と牧子との話だが、小説の始まりで牧子がすでにこの世にいないことがわかる。
 桜を通じて、小説内の時がさかのぼり、牧子がいた頃に戻っていく。

『花衣』に収録されている八篇は、時間の描き方が変わっていて、過去へいったり現代に戻ったりする。
 たとえば「茜」。

一枚の写真の中におさまってまぶしそうに笑っている藤子は、彼が覗いたファインダーの向うで、時間の凍結を解かれて動き出した。(「茜」p26)

こんなふうに小説が過去へと戻っていく。映画とかドラマみたいな手法が使われてる。しかし、そのぶん小説が複雑でわかりにくくもなっている。一文で過去へ戻ったりするからちゃんと読み進めていかないといけない。

こういう書き方は現実に近いものがある。生きている限り僕らは、何かを見て何かを思い出す、ということを頻繁にしている。時間は一定のように流れているように見えて、実はそうではないのだ。
「岬」の夢の話を見てみる。

「見ていたのはずっと遠い以前のことよ。でも、その仕合せな感じはあたしの過去にないものでした。そしてこれはどうしてもあなたにおはなししなくちゃと、夢のなかであせるように思いつづけてました。ほんとうよ。あたしの過去にないような仕合せよ。ねえ、それはこういうことじゃないかしら。」
 衿子はちょっと考えてから、言葉を継いだ。
「――いまのあたしが仕合せなものだから、その仕合せが、過去に映ったのよ、きっと。そうだわ。あたしが見た夢は過去のことではなくて、いまなのよ。いまのこの時間のうらがわなのよ。」(「岬」p73)

 夢のなかで現在と過去が表裏一体になっている。現実と過去を行き交うことによって、時空のねじれみたいなものが生まれている。
 同じモチーフの絵でも、画家によって別物かと思うほど違ってくるように、この小説の風景描写はただの写実ではない。どうしてこんなふうに桜を描写したのか、という背景が、男と女の関係(過去の時間)として書かれることで、その物体以上の奥行きを作りだしているように思った。

 近代文学と風景の関係は、登場人物の心情を風景におしつけるものだった。
 ただ、上田三四二のこの小説たちは、風景があくまで写実的に描かれている。にもかかわらず登場人物の心情が奥底に見える。それは「心情」ではなく「視線」と言い換えてもいいかもしれない。