ポール・オースター『写字室の旅』感想

写字室の旅

写字室の旅


 ポール・オースターの『写字室の旅』を読んだ。僕はオースターのファンじゃないから登場人物が○○だということを解説を読むまでわからなかったんだけど、せっかく無知の状態で読んだんだから別のアプローチで『写字室の旅』を読み解きたい。読み解きたいなんて大げさな言い方をしたけど、何も読み解く気がない。

 別にオースターのファンでも何でもないのに『写字室の旅』を読もうと思ったのは、冒頭部分がとてもよかったからだ。僕は内容云々よりも文章が馴染むか馴染まないかで読む本を決めるけど、冒頭部分は内容もよかった。

 老人は狭いベッドの縁に座って、両の手のひらを広げて膝に載せ、うつむいて、床を見つめている。真上の天井にカメラが据えられていることを、老人は知らない。シャッターは一秒ごとに音もなく作動し、地球が一回転するごとに八六四〇〇枚のスチール写真を生み出す。かりに監視されていることを老人が知っていたとしても、何も変わりはしないだろう。彼の心はここになく、頭の中にあるさまざまな絵空事のただなかに迷い込んでいるからだ。自分に取り憑いて離れない問いへの答えを、老人は探している。(p3)

 どこかミステリアスな内容である。加えて、語り手が実体を持っているかのような文章だ。語り手が監視者として老人の行動を描写しているように見える。

 本屋で立ち読みをして気に入った。『写字室の旅』というのもなかなかいい。老人は部屋に閉じこめられているままだが、旅というのは老人のさまよう心のことなんだろう。

 老人は自分が何者であるか知らない。どうしてここにいるのかもわかっていない。テーブルには文章が置いてある。彼のことを知っているたくさんの人間がやってくる。どうやら自分が恨まれていることを知る。

 老人はこの小説のなかでミスター・ブランクと名付けられる。彼のいる部屋は変わっていて、物にはそれを表す単語が書いてある。

 部屋にはいくつか物があり、それぞれの表面に白いテープが貼ってあって、活字体でひとつだけ単語が書かれている。たとえばベッドサイドテーブルには、テーブルという語。ランプには、ランプ。壁の上にさえ、壁は厳密には物とは言えないものの、と書いたテープが貼ってある。(p3ーp4 太字本文ママ)

 僕の好きなシーンは終盤になって、いつの間にかそのテープがごちゃまぜになっているところだ。

 壁にはいまや椅子と書いてある。ランプには浴室と書いてある。椅子にはと書いてある。(p130 太字本文ママ)

 ミスター・ブランクは時間をかけてテープを戻すのだけど、結局どうしてそんなことが起こったのかわからない。いや、彼は侵入者による悪戯だと思っている。ただ、それが事実かどうかは明らかにされていない。
 僕は言葉と意味するものがズレるということに惹かれた。
 これはいったい何なんだろうと思った。解釈することはできないのだけれど、重要なシーンのように思えた。