映画『貞子 vs 伽椰子』感想 (MX4D 2D)

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MX4dの感想は「水しぶきがうざい」以上。揺れるけど、それで怖さが+されているかどうかは人によるかな、と思う。揺れないシーンが多いし。揺れるところは映像的にも楽しいけど。超小刻みの振動が多かったかな。


めちゃくちゃ楽しかったですよ。「怖い」じゃなくて「楽しい」というところからホラーとしては察してください。でも、ちゃんと怖かったですね。怖がらせるポイントがW作品のコラボということもあって、二倍くらいありました。まあ、それが、じわじわ忍び寄る恐怖とはちょっと違いますけど。


何が楽しいって、ストーリーがいい。貞子VS伽椰子ですよ。こんなのギャグにしかならなさそうなのに、ちゃんと作っている。とくに霊媒師コンビが現れてからいい感じに雰囲気が変わっていいですね。凄腕だけどぶっきらぼうの経蔵と、口の悪い盲目の少女珠緒のコンビがいいんですよ。松田優作かよと思うようなルックスの経蔵がとにかくかっこいいんですよね。漫画やラノベ出そうな王道キャラじゃないですか。
とにかくホラー系ってわりとストーリーおざなりって感じなんですが、この二人出てきてからおもしろかったです。ホラーとして考えると嫌いな人はこのキャラ設定嫌いかもしんないですけど、僕はたまらなかったです。


そしてもうね、わかってると思うけど、貞子と伽椰子が戦うんです。くそ楽しいですよ。もうね、笑う。二人ともかわいい。俊雄はなんか可哀想でしたね。全体を通して俊雄は可哀想だった。
で、エンディングが、デーモン閣下なんですよ。主題歌聞いたときに最高だなと思いました。妙に明るいんですよ。あの終わりからのウキウキな曲は気持ちいいですね。リングの主題歌も明るいんですよね。めちゃくちゃ変な気分になりますよね。


総評としてはすごくいいんじゃないかなと思いました。やっぱり漫画から飛び出してきたような霊媒師コンビが新鮮味を出してました。ホラーでありがちなツッコミポイントもなかったですね。ボケ的な意味でツッコミポイントはいっぱいありましたけどね。心のなかで叫びまくってましたけど。「おまえもかい!」「うしろうしろ」みたいなことは呟いていました。
もう、すげー楽しかった。

「私、別の呪いにかかってるの」

こんなセリフがあるんです。映画のなかで。これは笑った。かっこよくないですか。私、別の呪いにかかってるの。人生で使う機会絶対無いですよね。めっちゃ言いたいわ。


あと、心理描写がなかなかでした。最初はこんな大学生いるのかよ、みたいな冷めた目で見てたんですけど、状況がやばくなるにつれて狂ってくのがいいですね。


もう、楽しい。ほんと楽しいので、これから観てくる人は楽しんでください。


伽椰子の小さいフィギュア買ったんですけど、色艶的にぷっちょみたいでした。

上田三四二『花衣』感想 1982年

花衣 (講談社文芸文庫)

花衣 (講談社文芸文庫)

(私が読んだのは単行本です。引用も単行本のページになります)


 ネットで見ると、この本は連作短編集というような呼び方がされているけれど、同じ登場人物が出てくるというわけではなくて、根幹するテーマのようなものが連作しているというものだ。
 表題作含む八作すべてが、男と女、生と死、にまつわるものである。と書くと、よくある小説のようにも思えるけど、風景描写に対する執念がずば抜けている。
「茜」では太陽、「日溜」では花、「岬」では海、のように小説には必ず自然が出てくる。
 男と女、生と死について書くのに欠かせないもののように出てくるのだ。
 写実的でありながらも、それ以上の詩情を感じさせる。

 たとえば表題作の「花衣」から桜について書かれた描写を抜き出してみる。

 桜は彼の頭上に気遠くなるほどの花の数をちりばめて、傾きはじめた陽が斜めに差すので、花が花に映え、花の枝が花の枝に影を落して、その光沢があるところでは練絹のように輝き、あるところではうす桃に翳りを増して、眼をこらすと、渋い紅いろの蕊と萼が群がる花々の一つ一つを鋲に留めて、花は花ごとに際立ちながら、それらの総体が、言い古された言葉ながら花の雲をなして、重力をうしなった軽さに中空に浮んでいた。(「花衣」p98)

 小説のなかでここまで桜を描写してみせるのはきっとありふれたものではない。引用後も描写は続く。桜の蕊(しべ)について書かれているのもおもしろい。
「花衣」は、河原という男と牧子との話だが、小説の始まりで牧子がすでにこの世にいないことがわかる。
 桜を通じて、小説内の時がさかのぼり、牧子がいた頃に戻っていく。

『花衣』に収録されている八篇は、時間の描き方が変わっていて、過去へいったり現代に戻ったりする。
 たとえば「茜」。

一枚の写真の中におさまってまぶしそうに笑っている藤子は、彼が覗いたファインダーの向うで、時間の凍結を解かれて動き出した。(「茜」p26)

こんなふうに小説が過去へと戻っていく。映画とかドラマみたいな手法が使われてる。しかし、そのぶん小説が複雑でわかりにくくもなっている。一文で過去へ戻ったりするからちゃんと読み進めていかないといけない。

こういう書き方は現実に近いものがある。生きている限り僕らは、何かを見て何かを思い出す、ということを頻繁にしている。時間は一定のように流れているように見えて、実はそうではないのだ。
「岬」の夢の話を見てみる。

「見ていたのはずっと遠い以前のことよ。でも、その仕合せな感じはあたしの過去にないものでした。そしてこれはどうしてもあなたにおはなししなくちゃと、夢のなかであせるように思いつづけてました。ほんとうよ。あたしの過去にないような仕合せよ。ねえ、それはこういうことじゃないかしら。」
 衿子はちょっと考えてから、言葉を継いだ。
「――いまのあたしが仕合せなものだから、その仕合せが、過去に映ったのよ、きっと。そうだわ。あたしが見た夢は過去のことではなくて、いまなのよ。いまのこの時間のうらがわなのよ。」(「岬」p73)

 夢のなかで現在と過去が表裏一体になっている。現実と過去を行き交うことによって、時空のねじれみたいなものが生まれている。
 同じモチーフの絵でも、画家によって別物かと思うほど違ってくるように、この小説の風景描写はただの写実ではない。どうしてこんなふうに桜を描写したのか、という背景が、男と女の関係(過去の時間)として書かれることで、その物体以上の奥行きを作りだしているように思った。

 近代文学と風景の関係は、登場人物の心情を風景におしつけるものだった。
 ただ、上田三四二のこの小説たちは、風景があくまで写実的に描かれている。にもかかわらず登場人物の心情が奥底に見える。それは「心情」ではなく「視線」と言い換えてもいいかもしれない。