テストのような小説

数年前のこと、ちょうど読んでいた海外小説の著者が、来日してトークショーをやるということで見に行くことにした。

その頃の僕はバイトをしながら小説を書くという自堕落な生活を送っていて、一つでも間違えば小説すら書かない体たらくっぷりを披露していた。


誰に見せても、こんな生活は腐ったモラトリアムの延長線上だと言われただろう。しかも、その線さえもグラウンドに引く白い粉のように掠れ始めていたのだ。


小説で生きていきたい、そんな思いはあっても現実は落選、落選、落選の繰り返しで、小説で暮らしていけるどころか1円も稼げていないのが現状だった。


そんな僕が小説家のトークショーに行くのは、もちろんファンだったり興味を持ったりしていることもあったけど、自分は小説家になりたいということを再認識させるためでもあったんじゃないかと今では思う。


現にその海外小説の名前どころか書いた小説家の名前すら忘れているのだから、本当に情けない。


ただ名前も忘れてしまったその小説は、絵の具をカンバスに無感情になぐりつけるような感じの作品で、シュルレアリスムに傾倒していた自分にとっては妙に惹かれる文体だったのを覚えている。


ちなみにトークショーは散々だった。土砂降りでびしょ濡れになった挙句、ビニール傘は800円もして、渡された翻訳機は使い方がわからず砂嵐の音だけを僕に聴かせた。どうやら壊れているようで交換はしてもらったのだけれど、もうそのときには何もかも終わろうとしていた。ただ覚えているのは「次回作はテストを書きたい」と言っていたこと。テストのような小説というのはわかるようで、よくわからなかった。

電車に乗っている変わった人たち

現在の僕の通勤時間は2時間。電車には1時間半乗っている。それだけ乗っていると時々変わった人に遭遇する。

ある日の電車の中、運良く座れた僕はスマホをいじりながら発車を待っていた。しかし運転間隔を調整しているようでなかなか発車しない。電車が遅延して申し訳ありませんとお決まりのアナウンスが流れた、とほぼ同時くらいに「本当だよ!」という大きな声が響いた。あ、これヤバイ人が乗っていると思いつつ、ちらっと声のする方を見た。

そこには、競馬とかで有り金を全部平気で注ぎ込むような小汚い老人が立っていた。アナウンスに対して「いいから早く発車しろよ!」とか「どうなってるんだ!」とか一人でツッコミを入れている。

車内にいる人たちは無関心だった。というか十中八九無関心を装っていたのだろう。車中にはちょっとした緊張感と、トラブルに巻き込まれたくない、という余所余所しい空気が漂っていた。

老人は電車が発車した後もブツブツ文句を言っていたのだけど、しばらくして座席が空いているのを発見すると座り始めた。そしてさっきまでの不機嫌そうな声が嘘のような上機嫌で演歌を歌い始めたのだ。

「なんだあいつやべえ……」という声が聞こえてきた。車中にいる全員を代弁するかのような一言だった。呟くような感じだったから恐らく心の声が漏れてしまったのだろう。それと同時にガシャガシャという音が響き始めた。さすがに気になって顔は動かさず、目線だけ音のする方を向けると、ヒップホップ風のストリートファッションに身を包んだ男性が短い脚立を組み立てていた。もう一回いうとマジで腰くらいの長さの脚立を組み立てていた。というか僕が見たときは組み立て終わっていた。

「おまえはおまえで何がしたいんだよ!」

と、思いっきりツッコミたかったのだが、僕は黙って目を瞑った。精神が不安定になると髪を触ったり首元に手をやる人がいるように、彼にとって精神を落ち着かせるためには脚立を組み立てなければならなかったのだろう。両親が大工とラッパーなんだ。そう思うしかなかった。

ちなみに僕はとあるソーシャルゲームをずっとやっているのだけど、電車の中でiPhoneをいじっていたら「新着動画があります」と通知が飛んできて思わず再生してしまったことがある。てっきり無音にしていると思っていたら「新着オセローニア!」と大音量で流れて死のうと思いました。慌てて音を小さくしようとしたら大きくしてしまうという慌てっぷり。冷静に考えればYoutubeなんだからiPhoneをロックすれば良かった。これがパズドラだったりモンストだったら恥ずかしさが多少は紛れるんだけど、オセロニアだから余計に恥ずかしかった。思わずWikipediaで大蔵大臣とか一切興味のないこと調べてしまった。