読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ウラジーミル・ソローキン『23000』感想 氷三部作3

 三部作の最終巻という特色もあって、ネタバレを気にせず内容にガンガン触れていこうと思っています。未読の方は『氷』もしくは『ブロの道』を読んでから、この本を手にとっていただければと思います。
 ソローキンは前衛的な小説で知られていますが、このシリーズはエンタメ度がかなり高く、文体の密度も濃いです。やはり難度は少し高めですが、どの読者層も楽しめること請け合いでしょう。
 もしこれから読まれる方は、刊行順とはずれるのですが『ブロの道』から読まれることをオススメします。『氷』の第四部の続きから、この最終巻は始まるからです。

23000: 氷三部作3 (氷三部作 3)

23000: 氷三部作3 (氷三部作 3)

『23000』の魅力は何といっても「空っぽのクルミ」の方に焦点が当たることです。憐れにも金髪で青目だったがために氷のハンマーで胸を打たれた人たち。彼彼女らの視点が描かれることで、「氷」の世界に新たな風が吹きこまれます。
 両親を氷のハンマーで殺され、自らも被害を受けたオリガという女性が「被害者側」の視点で登場するわけですが、主人公感が強いのです。
「光の兄弟」の勢力が強まっていくなかで、感情移入することができる唯一のキャラといっていいかもしれません。
 復讐に燃える彼女が、同じ被害者たちに会って情報を集めていく。そのストーリーラインは映画や海外ドラマでお馴染みのものかもしれません。おもしろくないわけがないということです。
 途中で罠に引っかかり、彼女は捕まってしまいます。そこには同じように捕まった「空っぽのクルミ」たちが一〇〇人以上いました。彼彼女らは死んだ雌犬の皮を剥いで、氷のハンマーのベルトを作らされていたのです。
 この秘密工場のなかにも魅力的なキャラクターが数多く登場します。まさに帯にあるとおり超エンタメにふさわしい内容。
 オリガ側の視点はもうページを繰ることに躊躇う必要がありません。まさに「紙の文字は肉機械の体に一時的な快楽を与える(p71)」からです。

「光の兄弟」側もラストスパートを迎えます。心臓の力が強いゴルンの登場によって、23000人の仲間たちの残り三人を観測します。
 この残り三人が氷のハンマーで打たれるパートがあるわけですが、文体内容キャラともにあくが強く、ああソローキンを読んでいるんだなという気分にさせてくれます。

 近づいてくる。時間だ。中から出て、コンドームを引っ剥がす。彼女の頭をつかみ、ベッドに押さえつける。自分の角をつかむ。拳で少し急激な動作をして、ミサトの耳の中でイく。彼女は訳がわからず凍りつく。その耳は俺の精液でいっぱいだ。p194

 汝が乞わば大地は密かに汗を流す。正しく静かに祈れば善なり。密かに乞え。母なる湿潤の大地よ、開けと。しかして息子の如く、御顔、御胸、御肩、御胎に接吻せよ。そこに大事な湿物あればなり。密かに呼吸しつつ待つべし。p201

 はねるのはいいこと……せかいで一番……はねていればみんなわすれるもの……ベンチだって飛びこえたらわすれちゃう……もうベンチはない……ラララ……どぶを飛びこえたらもうどぶはない…… p207


 多様な文体が読んでいて楽しい気持ちにさせてくれます。エンタメでありながらこういう特殊なことをして小説が成り立っていることが流石としか言いようがないですね。
 長編でありながら短編集という側面もあって、前著『ブロの道』がブロ視点の一本調子であったのに対し、今回は総決算という感じで、文体内容共にオンパレードで退屈しません。

 そして23000人すべて集結した光の兄弟たちは、〈大いなる出来事〉のために円環を成して心臓で語るわけですが、問題はラストですね。
 ラストをどう解釈するか、というのが氷三部作のなかで読者側に与えられた一つの楽しみであると思います。本書を未読の方はここから先は読まないでください。

 秘密工場のヴォルフ老人は、生命体のいる地球は宇宙の秩序の乱れとして、光の兄弟たちは秩序を戻そうとしていると考えていました。つまり地球の消滅ですね。
 しかし、実際は光の兄弟たちが全員死ぬことで終わりました。地球は消滅しなかった。

「原初の光」ということで想起するのはやはり「光あれ」ですよね。神様が「光あれ」ということで世界が生まれた。大枠はそんな感じだと思います。
 光の兄弟たちの「原初の光」というものが、世界を最初に戻すのか、それとも新しい世界を作るのか、ということを考えると私は後者だと思います。
 ヴォルフ老人の言葉が正しいのであれば、秩序を正す方法は光ではなくて闇なのではないかと思うからです。それこそ消滅させるならブラックホールが一番いい。

 光の兄弟たちは、肉というものを嫌っていました。人間を肉機械とし、食べものも肉を拒んだ。だから光の兄弟たちは肉体から乖離したと考えるのですが、霊魂の類いだとは思いません。

 光の兄弟たちの死体が苦悶の表情を浮かべ、胸に痣があったことを考えれば、何かが飛び出てきたことは考えられます。
 ここで宇宙生命体と書くと安っぽくて嫌なのですが、その宇宙生命体が氷とともに一九〇八年六月三〇日に、地球に不時着した。光とともに23000の宇宙生命体は人間に寄生した。そして再び集結するように人間を操った。操ったというとその宇宙生命体に意志があるようですが、もっと本能的なものだと思います。
 爆発した隕石は、地球のなりそこないのように思います。本来だったら生命が発展するはずだったのに何かしらのアクシデントがあって駄目だった。宇宙生命体はもっと原始的なものだと思います。
 金髪、青目なのはアダムとエバを意識していると思うんですが、実際アダムとエバが金髪青目なのかは調べられませんでした。
 光の兄弟(というより宇宙生命体)は集結して、寄生した人間の体を破って、どこかへ消えたわけですが、それがどこなのかはわかりません。彼らが宇宙からやってきたというのが私の考えですが、宇宙に戻ったというのはしっくりこないのです。ただ私は彼らは救われたと考えます。

 以上、勝手な憶測です。真に受ける人はいないと思いますが、事実ではないので信じないようにしてくださいね。おもしろい解釈があったら教えてください。

ウラジーミル・ソローキン『ブロの道』感想 氷三部作2


ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)

ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)

 

 『ブロの道』は前著『氷』とは違って全篇を通して、一人称で語られる主役アレクサンドル・スネギリョフ(心臓名ブロ)の物語になっています。

 ツーングースカ大爆発のあった一九〇八年六月三十日、アレクサンドルはこの世に生を受けます。
 戦争の途中、家族を失ったアレクサンドルは大学に入り、ツングース隕石の探索メンバーとして同行することになるのですが、目的地点に近づくにつれてアレクサンドルの様子がおかしくなる。
 最終的に探索の拠点であるバラックに火をつけたアレクサンドルは放浪の果て、沼に沈んだ氷を発見します。
 アレクサンドルは恍惚感とともに、ブロという本当の名前、そして2万3000人の同士の存在を知るのです。


 初めに原初の光のみがあった。光は絶対の空虚で光り輝いていた。光は自らのために輝いていた。光は二万三千の煌めく光線より成っていた。そして、その光線の一つが汝、ブロであった。

(松下隆志、ウラジーミル・ソローキン『ブロの道』)

『ブロの道』はその名の通り、ブロの人生の道を表しています。
 覚醒したブロがいかにして兄弟姉妹を見つけだしていくのか。それがロシアの歴史、第二次世界大戦とともに語られます。
 序中盤はわりとゆっくりとした展開が、終盤になって戦争が始まると加速度的に話が進んでいきます。
 アレクサンドルがブロになり、心臓の力が強まっていくにつれて、彼自身、ひいては「私」で語られるこの小説の文章も、変貌していきます。
 その変異は『氷』のフロムと同じようなものですが、本書はより激しく、文章における抽象度があがっていく。
 ロシアは「氷の国」と表され、ドイツは「秩序の国」、人間は「肉機械」、爆弾は「鉄卵」というふうに書かれる。
 このようにブロが肉機械(人間)たちの社会を見る視線は冷ややかです。
 生き別れた姉や元探索メンバーと再開しても、ブロには彼女が肉機械としか見えなくなっている。
 一人称の語りを通すことで、ブロの変化(氷を経て人間ではなくなっていく様子)がよりわかりやすくなっています。

『氷』も『ブロの道』も人間批判、テクスト批判に取ることもできます。とくに読書をしている肉機械に対する批判は痛烈なもののように思えます。
 私たちはどうあがいても「肉機械」側ですから、ブロやフェルのことを応援していいのかがよくわからない。
 批判をおかしくなった人間の戯れと捉えることも、正鵠を射ているものとして捉えることもできます。

福永信「コップとコッペパン」感想

コップとコッペパンとペン

コップとコッペパンとペン


 読者は小説を読むとき何かしらの手がかりを持って読むものだと思う。馴染みやすいところでいえばミステリーのお約束。ノックスの十戒を知らない人でも、小説に約束事はあることはわかると思う。
 一時期流行った「人称のぶれ」(移人称)も、一度どれかを読んでしまえばそこまで戸惑わない。現代小説に馴染んだ人なら、いかに小説をぶち壊そうとしても「ああ、こういうことをしたいんだな」というのはある程度わかる。
 でもこれは「なんだこれ感」が最後まで拭えなかった。何をしたいのか、どうやって書いているのか、さっぱりわからない。
 おもしろくないと言ったら嘘になる。しかし自分が「おもしろい」と思いながら読んだのかも定かではない。『コップとコッペパンとペン』は表題作合わせて四編の小説が載っており、一番好きなのは「座長と道化の登場」だが、まだ「コップとコッペパンとペン」の方が論じやすと思うで、「コップとコッペパンとペン」の感想しか書かない。(気が向いたら他のも書く。)
 おそらくこの「コップとコッペパンとペン」に何の意味はない。しかしこの文章を黙読している方は気づかれたと思うが、口ずさみたくなるほどリズミカルだ。それぞれに全くの関係性はないが、音としては非常に似ている。
「コップとコッペパンとペン」を貫いているのは、そういうゆるやかな「線」だろう。物語でもなく、テーマでもなく、言葉と言葉の関連性で繋がっている。若い人は知らないだろうが、昔流行ったマジカルバナナみたいな連想ゲームと似ているように思う。
 この小説、わずか数ページで早苗という登場人物が結婚し、死に、その夫も失踪する。そして早苗の娘が祖父に引き取られる。話の内容としては、この早苗の娘が失踪した父を探すというのが主になる。
 驚くのはそのスピードだ。小説では説明文や回想ではなく、早苗も夫もちゃんと描写されている。次の文章でいきなり結婚し、いきなり死んでいるのだ。
 現実ではありえない。しかし小説としては間違っていない。たとえば小説で「翌日」と書かれていたら、そのまま一日経ったものだと読者はあたりまえのように受け取る。不思議にも思わない。ただその時間の長さが数十年くらいに伸びただけだ。そう考えると、僕らは小説を読むときに異様な処理をしていることに気づかされる。「翌日」と書かれていたから一日が経ったと勝手に処理しているのは、どこかおかしくないだろうかと思ってしまう。
 こんなおかしな小説が小説として成立しているっていうのは、小説自体がおかしいのではということまで考えてしまうのだ。
 しかし、この程度の時間のスキップはまだ序の口である。
 転校して寄ってくる女の子が三つ編みばかりだとか、温水(ぬくみず)というデカが温泉に入る、友人(ともひと)と江里子という名の友人、父を追うために男湯に入る早苗、そしてそれがバレないだとか。
 一つ一つを取り立てていけば、どれもあり得ないものばかりだ。そしてそれらがごく自然に小説の中にいる。小説をぶっ壊してやろうとか、面白いことを書いてやろうとか、そういう「あざとさ」をなぜか感じない。おそらく固執しないからだと思う。さっきも言ったけど、この小説はスピーディに話が進んでいくのだ。
 結局、父の失踪の理由は明かされないまま、早苗の娘は結婚し暁という息子を産む。そして早苗の娘も夫も死んでしまい、十八歳の暁がこの小説の視点になる。
 暁は友人の友人(ともひと)が居留守を使うことに苛立つ。友人(江里子)が部屋に来るから出たくなかったが、友人(ともひと)の家へ行く。友人は暁の家へ行くという。しかし暁が帰ってくると、いたのは友人ではなく友人(江里子)だった。その江里子が家から出ていこうと絡まったブーツの紐に悪戦苦闘しているところで、小説が終わる。
 早苗―早苗の娘―暁、と三代にまたがってはいるが、やっていることはバラバラだ。最後までこの小説が何なのかわからない。
 比喩としては「線」のようなものがちょくちょく出てくるのはわかるだろう。「電線」「ロープ」「煙草(煙)」「三つ編み」「赤い糸」「ブーツの紐」。
 無理やり「早苗の娘と孫の話」でまとめることができる。そうなると、この小説に描かれているのは親子の「線」ということになる。最後の「ブーツの紐」が絡まったまま終わるのは、この小説がその薄い「線」を頼りにしながら、物語的にバラバラであることを表しているのかもしれない。

映画『貞子 vs 伽椰子』感想 (MX4D 2D)

www.youtube.com


MX4dの感想は「水しぶきがうざい」以上。揺れるけど、それで怖さが+されているかどうかは人によるかな、と思う。揺れないシーンが多いし。揺れるところは映像的にも楽しいけど。超小刻みの振動が多かったかな。


めちゃくちゃ楽しかったですよ。「怖い」じゃなくて「楽しい」というところからホラーとしては察してください。でも、ちゃんと怖かったですね。怖がらせるポイントがW作品のコラボということもあって、二倍くらいありました。まあ、それが、じわじわ忍び寄る恐怖とはちょっと違いますけど。


何が楽しいって、ストーリーがいい。貞子VS伽椰子ですよ。こんなのギャグにしかならなさそうなのに、ちゃんと作っている。とくに霊媒師コンビが現れてからいい感じに雰囲気が変わっていいですね。凄腕だけどぶっきらぼうの経蔵と、口の悪い盲目の少女珠緒のコンビがいいんですよ。松田優作かよと思うようなルックスの経蔵がとにかくかっこいいんですよね。漫画やラノベ出そうな王道キャラじゃないですか。
とにかくホラー系ってわりとストーリーおざなりって感じなんですが、この二人出てきてからおもしろかったです。ホラーとして考えると嫌いな人はこのキャラ設定嫌いかもしんないですけど、僕はたまらなかったです。


そしてもうね、わかってると思うけど、貞子と伽椰子が戦うんです。くそ楽しいですよ。もうね、笑う。二人ともかわいい。俊雄はなんか可哀想でしたね。全体を通して俊雄は可哀想だった。
で、エンディングが、デーモン閣下なんですよ。主題歌聞いたときに最高だなと思いました。妙に明るいんですよ。あの終わりからのウキウキな曲は気持ちいいですね。リングの主題歌も明るいんですよね。めちゃくちゃ変な気分になりますよね。


総評としてはすごくいいんじゃないかなと思いました。やっぱり漫画から飛び出してきたような霊媒師コンビが新鮮味を出してました。ホラーでありがちなツッコミポイントもなかったですね。ボケ的な意味でツッコミポイントはいっぱいありましたけどね。心のなかで叫びまくってましたけど。「おまえもかい!」「うしろうしろ」みたいなことは呟いていました。
もう、すげー楽しかった。

「私、別の呪いにかかってるの」

こんなセリフがあるんです。映画のなかで。これは笑った。かっこよくないですか。私、別の呪いにかかってるの。人生で使う機会絶対無いですよね。めっちゃ言いたいわ。


あと、心理描写がなかなかでした。最初はこんな大学生いるのかよ、みたいな冷めた目で見てたんですけど、状況がやばくなるにつれて狂ってくのがいいですね。


もう、楽しい。ほんと楽しいので、これから観てくる人は楽しんでください。


伽椰子の小さいフィギュア買ったんですけど、色艶的にぷっちょみたいでした。

上田三四二『花衣』感想 1982年

花衣 (講談社文芸文庫)

花衣 (講談社文芸文庫)

(私が読んだのは単行本です。引用も単行本のページになります)


 ネットで見ると、この本は連作短編集というような呼び方がされているけれど、同じ登場人物が出てくるというわけではなくて、根幹するテーマのようなものが連作しているというものだ。
 表題作含む八作すべてが、男と女、生と死、にまつわるものである。と書くと、よくある小説のようにも思えるけど、風景描写に対する執念がずば抜けている。
「茜」では太陽、「日溜」では花、「岬」では海、のように小説には必ず自然が出てくる。
 男と女、生と死について書くのに欠かせないもののように出てくるのだ。
 写実的でありながらも、それ以上の詩情を感じさせる。

 たとえば表題作の「花衣」から桜について書かれた描写を抜き出してみる。

 桜は彼の頭上に気遠くなるほどの花の数をちりばめて、傾きはじめた陽が斜めに差すので、花が花に映え、花の枝が花の枝に影を落して、その光沢があるところでは練絹のように輝き、あるところではうす桃に翳りを増して、眼をこらすと、渋い紅いろの蕊と萼が群がる花々の一つ一つを鋲に留めて、花は花ごとに際立ちながら、それらの総体が、言い古された言葉ながら花の雲をなして、重力をうしなった軽さに中空に浮んでいた。(「花衣」p98)

 小説のなかでここまで桜を描写してみせるのはきっとありふれたものではない。引用後も描写は続く。桜の蕊(しべ)について書かれているのもおもしろい。
「花衣」は、河原という男と牧子との話だが、小説の始まりで牧子がすでにこの世にいないことがわかる。
 桜を通じて、小説内の時がさかのぼり、牧子がいた頃に戻っていく。

『花衣』に収録されている八篇は、時間の描き方が変わっていて、過去へいったり現代に戻ったりする。
 たとえば「茜」。

一枚の写真の中におさまってまぶしそうに笑っている藤子は、彼が覗いたファインダーの向うで、時間の凍結を解かれて動き出した。(「茜」p26)

こんなふうに小説が過去へと戻っていく。映画とかドラマみたいな手法が使われてる。しかし、そのぶん小説が複雑でわかりにくくもなっている。一文で過去へ戻ったりするからちゃんと読み進めていかないといけない。

こういう書き方は現実に近いものがある。生きている限り僕らは、何かを見て何かを思い出す、ということを頻繁にしている。時間は一定のように流れているように見えて、実はそうではないのだ。
「岬」の夢の話を見てみる。

「見ていたのはずっと遠い以前のことよ。でも、その仕合せな感じはあたしの過去にないものでした。そしてこれはどうしてもあなたにおはなししなくちゃと、夢のなかであせるように思いつづけてました。ほんとうよ。あたしの過去にないような仕合せよ。ねえ、それはこういうことじゃないかしら。」
 衿子はちょっと考えてから、言葉を継いだ。
「――いまのあたしが仕合せなものだから、その仕合せが、過去に映ったのよ、きっと。そうだわ。あたしが見た夢は過去のことではなくて、いまなのよ。いまのこの時間のうらがわなのよ。」(「岬」p73)

 夢のなかで現在と過去が表裏一体になっている。現実と過去を行き交うことによって、時空のねじれみたいなものが生まれている。
 同じモチーフの絵でも、画家によって別物かと思うほど違ってくるように、この小説の風景描写はただの写実ではない。どうしてこんなふうに桜を描写したのか、という背景が、男と女の関係(過去の時間)として書かれることで、その物体以上の奥行きを作りだしているように思った。

 近代文学と風景の関係は、登場人物の心情を風景におしつけるものだった。
 ただ、上田三四二のこの小説たちは、風景があくまで写実的に描かれている。にもかかわらず登場人物の心情が奥底に見える。それは「心情」ではなく「視線」と言い換えてもいいかもしれない。