三人称日記のススメ

よく宇宙人が地上に降り立ったときに
「我々は宇宙人だ」と地球人に言うようなイメージがある。

勝手な偏見でしかないけれど
きっと宇宙人はマッチングアプリでマッチした相手にも
「我々は宇宙人です」とメッセージを送り
MEではなくWEということを訴えてくるのかもしれないと思っている。

ポケモンで言えばモグラみたいなものが
3匹集まったダグドリオのようなイメージが
宇宙人には勝手に植え付けられている。

だけど、私が宇宙人だったら
「私は宇宙人です。後ろのやつらも宇宙人です」
と私と彼らを切り離して言うだろう。

もっと言えば何も言わないかもしれない。
コミュ障だから。便利な言葉。

ちなみにこの宇宙人の話はまったく関係なく
本題は、日記の話だから日記の話をする。
文章の中でもコミュ障を発揮する。
コミュ障は文章からも逃げられない。

余談はさておき、日記の話。

名前がない飼い猫を主人公に書こうとしない限りは
日記というのは一般的に自分のことを書くものだから
一人称、つまり「僕」とか「私」とかで書く。
たとえば、

僕は上司のことをパリジェンヌと陰で呼んでいるんだけど、それがバレたようで15分くらい困惑と質問攻めが続いた。

こんな風な感じで日記を書く。
この形式を疑いながら書くものは
あまりいないだろうし何もおかしくない。

ただ小説が人称をいじくり倒して
一人称やら二人称やら三人称やら
四人称やら移人称やらなんでもありなように
日記も一人称にこだわる必要はなにもない。

むしろ日記は三人称で書くと
すごく楽しい。


三人称で日記を書くと、「私」という存在が現実の「私」と離れ離れになって、
そこに書かれている出来事が私を通じて体験したものではなく
遠い世界の話のように思えてくる。

惑星ごと遠い存在になった「私」は
日記という世界の中で
「KB」という情報がどれくらいあるかを示すデータに成り
そこで生き続けるのだ。

歴史を遡れば
カエサルガリア日記で行っていた
三人称日記は

客観的に自分を見つめる術として
ラジオ体操のような健康法の一種に成り下がったけど
三人称日記の良いところは
自分を客観的に見られることでも、
感情を整理できることでもないと私は思う。

三人称日記というのは
「日記」の中にもうひとりの私を
爆誕させることである。

爆誕という言葉を思いついた人は
チャラいけど幸せな人生を送りそう。

ガリア日記が良質な物語であるように
私小説が三人称で書かれることが多いように
日記というのが「私」が登場する
物語になるのだ。ははは、おもろ。

ここで私の三人称日記から一文を引用してみる。
※私は自分の日記に別名をつけているのだけど
個人情報保護の観念から言って、明かすのは得策ではないと判断し、
ここでは自分の名前をスキヤキにしておく。

スキヤキは会社を出ると○○の本屋に向かうために○○駅へと歩き出した。

コンビニの途中で買った肉まんを齧りつき、
口いっぱいに広がる肉の甘みとふわふわの生地の感触を味わいながら
(どうして夏に食べる肉まんは美味しいのだろう)
と、どうでも良いことを考える。

肉まんを掴んでいる右手がじんわりと温かく
スキヤキにまとわりつく夜風も
昼間の熱をまだ残している。


駅に近づいていくと辺りは会社帰りと
思わしきサラリーマンたちで満ちている。

肉まんを支えていた半円の紙を
くしゃくしゃに丸めながら
四方八方から聞こえてくる
人々の話し声や足音を聞いていると
なんとなく夜祭りを思い出した。

ほどよい人混みがそう思わせたのかもしれない。

こんな感じで、なんとなく小説っぽくなる。
登場人物がスキヤキ以外出てこないので
日記でもコミュ障を発揮している。

コミュ障は日記からも逃げられない。