テストのような小説

数年前のこと、ちょうど読んでいた海外小説の著者が、来日してトークショーをやるということで見に行くことにした。

その頃の僕はバイトをしながら小説を書くという自堕落な生活を送っていて、一つでも間違えば小説すら書かない体たらくっぷりを披露していた。


誰に見せても、こんな生活は腐ったモラトリアムの延長線上だと言われただろう。しかも、その線さえもグラウンドに引く白い粉のように掠れ始めていたのだ。


小説で生きていきたい、そんな思いはあっても現実は落選、落選、落選の繰り返しで、小説で暮らしていけるどころか1円も稼げていないのが現状だった。


そんな僕が小説家のトークショーに行くのは、もちろんファンだったり興味を持ったりしていることもあったけど、自分は小説家になりたいということを再認識させるためでもあったんじゃないかと今では思う。


現にその海外小説の名前どころか書いた小説家の名前すら忘れているのだから、本当に情けない。


ただ名前も忘れてしまったその小説は、絵の具をカンバスに無感情になぐりつけるような感じの作品で、シュルレアリスムに傾倒していた自分にとっては妙に惹かれる文体だったのを覚えている。


ちなみにトークショーは散々だった。土砂降りでびしょ濡れになった挙句、ビニール傘は800円もして、渡された翻訳機は使い方がわからず砂嵐の音だけを僕に聴かせた。どうやら壊れているようで交換はしてもらったのだけれど、もうそのときには何もかも終わろうとしていた。ただ覚えているのは「次回作はテストを書きたい」と言っていたこと。テストのような小説というのはわかるようで、よくわからなかった。