今日、壁に向かって歌っている路上ミュージシャン(おじさん)を見た。これまで数多の路上ミュージシャンを見てきた僕も、通行人に背中を向けながら歌うおじさんを見るのははじめてだった。
どうして壁に向かって歌っているのだろう? と僕は疑問に思ったのだけど、気持ちよく熱唱しているおじさんに向かって「お尻を見せつけながら歌って楽しいですか?」とはさすがに聞けなかった。
このおじさんは歌だけには自信があるのかもしれない。耳を澄まして聞いてみると確かになかなか渋みのある声をしている。一般人と比べたらうまいのは歴然だった。
もしかするとおじさんは「これだけ歌が上手かったら、通行人のハートを射止めるのなんて楽勝だろう」思ったのではないだろうか。
なけなしのボーナスを働いてギターを購入したおじさんは、それなりに栄えている駅の前に立つ。そして弾き語りで長渕剛を歌いだす。
しかし、現実は厳しい。いくらおじさんの歌がなかなかのものだとはいえ、自分の父親くらいのおじさんが熱唱している姿は若者にとって目に入れたくはない光景だ。多少下手とはいえ今風のかっこいい若者の周りにお客は集まっていく。
「ちくしょう、あいつらなんて若いだけが取り柄じゃねえか」と酒に酔いつぶれた夜もあっただろう。このままじゃ引き下がれないおじさんは、試行錯誤を繰り返した。そして、ようやくたどり着いたのがお客に背中を向けるスタイルだったのではないだろうか?
顔を見られなければおじさんだということはわからない、おじさんはそう思ったはずだ。むしろ想像力をかきたてていいのではないか、俺は天才なんじゃないか、そういうおじさんの内なる声が背中越しに聞こえてくるようだった。
しかし、いくら背中を向けていても溢れ出ているおじさん臭は隠しきれていなかった。猫背、中肉中背、薄くなった頭髪。日常的に眼鏡をかけざる得ない僕が遠目から見ても、まごうことなきおじさんの後ろ姿だった。
そして、この背中を見せて歌うスタイルにはもうひとつ欠点があった。それはどのくらいお客さんが集まっているのかまったくわからないからだ。壁に向かって歌っているのだから当然だろう。もしかしたらおじさんは「やばいほど人が集まっていたらどうしよ。ちくしょうついに俺も人気者か」なんて思っているかもしれない。そして、これはもう男の性なのだけど、「かわいい女の子もいないかなー」とか思っている可能性が高い。
しかし、足をとめているのは会社で「頻尿カワウソ」という二つ名をつけられた僕しかいなかった。それも頻尿カワウソは、おじさんの内面を覗こうとしているだけで、歌をまったく聞こうとしていないのだ。
僕はおじさんに憐れみを感じざるを得なかった。
再び歩き出した僕だったが、急に「いかがですか!」と大きな声で話しかけられた。居酒屋のキャッチだろうと無視して通り過ぎようとする。キャッチもすぐに諦めたようで違う通行人のもとへ向かっていった。
このとき、何かしらの違和を感じていたのは確かだった。もし僕が歩くスピードが速かったら違和は違和のまま消え去っていったのかもしれない。
さっきのキャッチの声が聞こえてきた。
「お姉さん、どうですか? 歌いませんか?」
ん? 歌う。
振り返ってよーくキャッチが持っている看板を見ると「まねき○○」と書いてある。有名なカラオケチェーン店だ。居酒屋のキャッチだと思っていたらカラオケのキャッチだったのである。
キャッチは「カラオケで歌っていきませんか?」「歌はどうですか?」「歌いませんか?」と通行人に片っ端に声をかけていく。
その5メートル先におじさんが一生懸命壁に向かいながら歌っているわけだ。もちろん、キャッチが「歌いませんか?」とおじさんに話しかけることはない。なぜなら、すでにおじさんは熱唱しているからだ。
壁に向かって熱唱するおじさん。その周りで「歌いませんか?」と呼びかけていくキャッチ。これは高度な実演販売みたいなものなのだろうか。そう思いながら、トイレに行きたくなった僕は駅へとダッシュしたのだった。