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福永信「コップとコッペパン」感想

日本文学 -00年代

コップとコッペパンとペン

コップとコッペパンとペン


 読者は小説を読むとき何かしらの手がかりを持って読むものだと思う。馴染みやすいところでいえばミステリーのお約束。ノックスの十戒を知らない人でも、小説に約束事はあることはわかると思う。
 一時期流行った「人称のぶれ」(移人称)も、一度どれかを読んでしまえばそこまで戸惑わない。現代小説に馴染んだ人なら、いかに小説をぶち壊そうとしても「ああ、こういうことをしたいんだな」というのはある程度わかる。
 でもこれは「なんだこれ感」が最後まで拭えなかった。何をしたいのか、どうやって書いているのか、さっぱりわからない。
 おもしろくないと言ったら嘘になる。しかし自分が「おもしろい」と思いながら読んだのかも定かではない。『コップとコッペパンとペン』は表題作合わせて四編の小説が載っており、一番好きなのは「座長と道化の登場」だが、まだ「コップとコッペパンとペン」の方が論じやすと思うで、「コップとコッペパンとペン」の感想しか書かない。(気が向いたら他のも書く。)
 おそらくこの「コップとコッペパンとペン」に何の意味はない。しかしこの文章を黙読している方は気づかれたと思うが、口ずさみたくなるほどリズミカルだ。それぞれに全くの関係性はないが、音としては非常に似ている。
「コップとコッペパンとペン」を貫いているのは、そういうゆるやかな「線」だろう。物語でもなく、テーマでもなく、言葉と言葉の関連性で繋がっている。若い人は知らないだろうが、昔流行ったマジカルバナナみたいな連想ゲームと似ているように思う。
 この小説、わずか数ページで早苗という登場人物が結婚し、死に、その夫も失踪する。そして早苗の娘が祖父に引き取られる。話の内容としては、この早苗の娘が失踪した父を探すというのが主になる。
 驚くのはそのスピードだ。小説では説明文や回想ではなく、早苗も夫もちゃんと描写されている。次の文章でいきなり結婚し、いきなり死んでいるのだ。
 現実ではありえない。しかし小説としては間違っていない。たとえば小説で「翌日」と書かれていたら、そのまま一日経ったものだと読者はあたりまえのように受け取る。不思議にも思わない。ただその時間の長さが数十年くらいに伸びただけだ。そう考えると、僕らは小説を読むときに異様な処理をしていることに気づかされる。「翌日」と書かれていたから一日が経ったと勝手に処理しているのは、どこかおかしくないだろうかと思ってしまう。
 こんなおかしな小説が小説として成立しているっていうのは、小説自体がおかしいのではということまで考えてしまうのだ。
 しかし、この程度の時間のスキップはまだ序の口である。
 転校して寄ってくる女の子が三つ編みばかりだとか、温水(ぬくみず)というデカが温泉に入る、友人(ともひと)と江里子という名の友人、父を追うために男湯に入る早苗、そしてそれがバレないだとか。
 一つ一つを取り立てていけば、どれもあり得ないものばかりだ。そしてそれらがごく自然に小説の中にいる。小説をぶっ壊してやろうとか、面白いことを書いてやろうとか、そういう「あざとさ」をなぜか感じない。おそらく固執しないからだと思う。さっきも言ったけど、この小説はスピーディに話が進んでいくのだ。
 結局、父の失踪の理由は明かされないまま、早苗の娘は結婚し暁という息子を産む。そして早苗の娘も夫も死んでしまい、十八歳の暁がこの小説の視点になる。
 暁は友人の友人(ともひと)が居留守を使うことに苛立つ。友人(江里子)が部屋に来るから出たくなかったが、友人(ともひと)の家へ行く。友人は暁の家へ行くという。しかし暁が帰ってくると、いたのは友人ではなく友人(江里子)だった。その江里子が家から出ていこうと絡まったブーツの紐に悪戦苦闘しているところで、小説が終わる。
 早苗―早苗の娘―暁、と三代にまたがってはいるが、やっていることはバラバラだ。最後までこの小説が何なのかわからない。
 比喩としては「線」のようなものがちょくちょく出てくるのはわかるだろう。「電線」「ロープ」「煙草(煙)」「三つ編み」「赤い糸」「ブーツの紐」。
 無理やり「早苗の娘と孫の話」でまとめることができる。そうなると、この小説に描かれているのは親子の「線」ということになる。最後の「ブーツの紐」が絡まったまま終わるのは、この小説がその薄い「線」を頼りにしながら、物語的にバラバラであることを表しているのかもしれない。