- 作者: 富岡多恵子,加藤典洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1988/07/04
- メディア: 文庫
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木下古栗のインタビューを読んでいたら、富岡多恵子の「芻狗」を紹介していて、読むしかないと思った。
尖りまくっている古栗が「とても尖っている」と評する小説というのはどういうものだろうと気になったのだ。
読み終わった直後はふらふらした。こういう風に終わるというのは誰も想像がつかないんじゃないだろうかと思った。笑う。
感想を書き始めておいてあれだけど、自分の能力では把握ができない小説だった。
主人公の「わたし」は性交にしか興味がない。この小説はほとんど性交と、それに至るまでの過程で占められる。ただ、その性交というのが本当にその行為自体でしかない。
「わたし」は性欲ではなく、もっと違うところで性交している。性欲云々に関してはかなり冷め切っている。というより嫌っている。
もっと違うところ、というのが自分では上手く説明できない。
繋げたら一つになるパーツが二つ転がっていたら――ジグソーパズルでもいいけど――一つにしたいと思うだろう。
それが自然だから性交するというのか。しかし、性交を物体的なものだけとして見てる、というと少し違ってくる。
冷め方でいえば、どうせいつか人は死ぬ、というのと少し似ている。
最後の方のシーン。子供がたくさんいる遊園地。「ヒトに子供が生れないと早く終わっていいな*1」と、ふと思ってしまう「わたし」。
そしてラストの小屋はたぶん、序盤に出てきた演劇とイメージ的には繋がっているんだと思った。
小説の舞台にいた「わたし」が、舞台から引きずり降ろされた。その瞬間というのは、「ヒトに子供が生れないと早く終わっていいな」のあとで、「そう思ったことがまわりのひとびとに見えたのではないかと恐怖して、ベンチにうずくまり、だれからの視線も遮蔽した*2」という文章からだと考える。
自分の異常性に気づき、かつ、他人からもうがった形で糾弾される。「冷めきった性交」が許される小説の世界(舞台上)から、「わたし」は拒絶される。そうして性交不可能になった結果が「あのラスト」なんじゃないだろうか。演者は袖にひっこむが、舞台から引きずり降ろされた「わたし」はその場に留まるしかない。
という暴論。個人的な考えということで。