走りタバコの時代に捧ぐ

最近はマナーの良い喫煙者が増えたと思う。このまえも4、5人の大学生グループが歩きタバコをしていた。それだけでもかなりマナーが良いというのに、大学生の一人が携帯灰皿を取り出したときは驚いた。ベンチに座っていたおばあちゃんもニコニコと微笑ましそうに彼らを眺めていた。


走りタバコが問題になったのはいまから数年前のことだろうか。きっかけはとある人気YouTuberが「走りながら吸う煙草は上手い」と動画をアップロードしたことだった。そのYouTuberは数ヶ月もしないうちに、大麻を吸いながら走っているところを警察に取り押さえられたのだが、走りタバコブームは衰えるどころかさらに勢いを増すばかりだった。


テレビのニュース番組にも度々走りタバコが取り上げられたのを覚えている。画面には若者が2、3本タバコを口に咥えながら街中を全力疾走する様子が映っていた。


評論家は口を揃えて「いやー、新しい時代になったものだ」と言った。これだけ喫煙者のマナーが良くなったのは歴史上初めてかもしれない、と。


確かに十数年前は本当にひどい有り様だった。踊りながら吸う「ダンシング」、七種類のタバコを一度に吸う「レインボー」、死体の口にタバコを差して煙を味わう「なきがら」など、数えきれない裏喫煙が流行し、社会問題になっていた。


その当時、僕は小学校低学年くらいだったのだけど、親戚のおじさんが平気でお年玉袋にタバコを入れるような恐るべき時代だったのだ。


しかし、当のおじさんはというと酒が回ると「今はかなり喫煙者に厳しい時代だよ、肩身狭い」とよく愚痴をこぼしていた。


おじさんが20代くらいのときは場末に喫煙所というものがあったらしい。仕事で辛いことがあったり好きな人に振られたりしたときは、愛用のタバコを喫煙所に連れこんで欲望のまま吸い口をもてあそび、何もない空間に紫煙を吐きつける。そうすることで嫌なことを全て忘れることができたという。


おじさんの話を聞いたとき、僕はかなりぞわっとしたのを覚えている。タバコを吸うだけの部屋があるといういかがわしさに気持ち悪くて仕方なかった。


そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、おじさんは僕の耳元で照れ臭そうにこう囁くのだった。


「喫煙所があったときは、じっと立ったままタバコ吸ってたんだよ。へへへ」


せり上がるものを感じて嘔吐した。

じっと立ったままタバコを吸うなんてど変態のサイコパス野郎かよ。

テストのような小説

数年前のこと、ちょうど読んでいた海外小説の著者が、来日してトークショーをやるということで見に行くことにした。

その頃の僕はバイトをしながら小説を書くという自堕落な生活を送っていて、一つでも間違えば小説すら書かない体たらくっぷりを披露していた。


誰に見せても、こんな生活は腐ったモラトリアムの延長線上だと言われただろう。しかも、その線さえもグラウンドに引く白い粉のように掠れ始めていたのだ。


小説で生きていきたい、そんな思いはあっても現実は落選、落選、落選の繰り返しで、小説で暮らしていけるどころか1円も稼げていないのが現状だった。


そんな僕が小説家のトークショーに行くのは、もちろんファンだったり興味を持ったりしていることもあったけど、自分は小説家になりたいということを再認識させるためでもあったんじゃないかと今では思う。


現にその海外小説の名前どころか書いた小説家の名前すら忘れているのだから、本当に情けない。


ただ名前も忘れてしまったその小説は、絵の具をカンバスに無感情になぐりつけるような感じの作品で、シュルレアリスムに傾倒していた自分にとっては妙に惹かれる文体だったのを覚えている。


ちなみにトークショーは散々だった。土砂降りでびしょ濡れになった挙句、ビニール傘は800円もして、渡された翻訳機は使い方がわからず砂嵐の音だけを僕に聴かせた。どうやら壊れているようで交換はしてもらったのだけれど、もうそのときには何もかも終わろうとしていた。ただ覚えているのは「次回作はテストを書きたい」と言っていたこと。テストのような小説というのはわかるようで、よくわからなかった。